湧別の住民たち(1)菊池節雄 第1章

最近の春日丸

最近の春日祭に使われる「春日丸」→



★ 一生の運命を決めた腕の怪我
小学校5年生の12月だった。隣の木工場に行って仕事を手伝っていたとき、ベルトに引きこまれたんだ。左手が上腕から手首にかけ、3つにバラバラになり、それがなんとかつながって現在にいたっている。
どこの病院にいっても、これはだめだと言われた。どの医者も、
「腕を切断しなさい。現在はいい義手があるから、なんとかなりますよ」
だけど、祖母は
「いやぁー、切るのは最後でいいから……」
と頑強に言いはって、最後に、弘前市郊外にあった「またいち福士整骨病院」にたどりついた。ここは古い病院で、私がいったときすでに5代目。70歳くらいの爺さん医者と40歳代の息子医者が診療していたね。息子の医者は昼から美里村の村長もやっていて、怪我では大変有名な病院だった。
私の腕を診察すると、院長さんは
「ああ、春の観桜会には桜観れるから……」
と、言ってくれた。昔からきまっていて弘前では4月25日から5月5日まで観桜会、つまりお花見になる。それまでに治るというわけなんだね。
それから、肉がもりあがって1本につながるまで8ヶ月入院することになった。入院費は1日1円、重労働の人の日当が1円の時代、通常の農家でとても払えるわけがない。我が家も困ってしまってね。ところが、今でも覚えていますが、木工場を経営していた秋田木材のほうでポンと240円もだしてくれたんですわ。年少の子どもを仕事をさせたので、責任を感じたのでしょう。秋田木材は当時北海道のほうにも進出していた大きな会社でした。
祖母のがんばり、またいちの院長さん、秋田木材の費用負担などによって、私の左手は不自由ですが、義手にならずにすんだのね。この怪我がなかったら、この前の戦争で兵隊にとられ、多くの友人たちのように現在生きていなかったかもしれない。また、この障害がなかったら、洋服職人になることもなかったよね。私の一生はこの怪我によって左右されたと思うと感慨深いものがありますね。
5年生の12月から8ヶ月も入院したが、さいわい落第することなく進級させてもらった。温情ある当時の教育制度のおかげもあるのでしょうが、成績がよかったせいかもしれない。「乙」(おつ、現在の4)はたった一つ、ほかはすべて「甲」(こう、現在の5)。操行だけが「乙」だった。あるとき先生が成績簿をもってきて言ったね。
「お前、操行は本当なら『丙』(へい、現在の3)の下、『丁』(てい、現在の2)でもいいくらいだ。ほかの成績いいから大目に見てるんだぞ」
と。そうなんだね。けんかばかりしてたからね。相手変われど、主変わらずだった。分校から行って男子17人の中に放りこまれ、、2月18日の早生まれだからなりは小さい。しかし、負けん気だけは強かったからね。よくけんかしたもんさ。意地があったんだよ。現在ではあの同級生たちもみんな亡くなってしまい、生きているのは私だけになってしまいました。
★ 当時の風俗
そのころ、部落の人はみんな和服だった。洋服を着ているのは郵便局員、学校の先生、役場の職員くらいのもの。子どもたちも和服の筒袖。私が5年生のときだったと思うけど、夏に霜降りの学生服をはじめて着るようになって、冬服へとつながっていったのね。低学年のとき着ていた筒袖の着物は、すべて祖母が縫ってくれました。下着のシャツや股引まで縫ってくれたのね。お祭り、お正月に備えて新しい着物は年2回作っくれてね。そのころを見計らって行商の呉服屋がやってきて店を広げる。そこで布やボタンを買う。実家は豊かではなかったが、まぁ、まぁの生活をしてたから、あのころの平均的な農家ではそんな具合だったんでしょうね。
ひどく貧乏な農家ではなかったのは、ズーッと米の飯をたべていたことでも分かるんだよ。米だけの飯をたべられない農家もあったからね。とくに南部(青森県東南部)のほうでは冷害で米の飯をたべられない農家が多かったようだ。3年にいっぺんくらいやってくる「やませ」で大凶作になり、ワラビの根を掘ってたべているとか、そういう噂を聞いたもんだった。大間越では昔の武家がまだ残っていて、部落全体として生活の基盤がしっかりしていたように思いますね。
低学年のころの履物はぞうりだけ。5、6年生ころからゴムの短靴になったのね。冬はわらぐつをはいている子どももいたが、大多数はゴム長靴になっていた。ぞうりなどを作るのはおじいさんやご主人の冬の間の仕事でした。
私の家では叔父がつくっていました。いや、いま思いだしてみると、曽祖父も作っていたんでしょうね。私が5歳のとき、大間越で大火があり実家も含めて部落の半分が焼けた。私は曽祖父に抱かれてこの火事を見ていた記憶があります。だから、まだそのころは曽祖父も健在だったにちがいないね。ふだん履くぞうりは「足中」(あしなか)とよんでた。古布を細くさいて、わらに編みこむと丈夫なぞうりになったようでした。
ぞうりを作るには、稲わらをパンパンたたいてやわらかくする。この「わらたたき」は子どもの仕事ときまっていたから、いつもやらされてたね。冬のさなか、表にある平らな石の上に積もった雪をはらいのけ、木筒でパンパンと3束くらいたたく。これもいやな仕事だったね。寒くて寒くて手が凍えてしまう。1束たたきあげるのに10分くらいはかかったようにおもうね。縄を綯(な)うにも稲わらをたたいた。大きくなると私も縄ないをやらされたが、こちらへやってくる直前、岩崎村に農事組合ができて縄ない機を共同購入したから、この仕事はゴメンとなりホッとした。俵(お米を16貫(60kg)単位で入れて運搬・保存する容器)も自分の家で作ったのね。編み機があって縄についた木製のコマを交互に動かして編んでいました。
大間越に電気がついたのは小学校にあがったころ。はじめのころは薄暗かったね。それまではランプを使っていた。ランプのホヤ掃除はもの心つく頃からやっていたと思うね。子どもの小さい手がホヤの中にらくらく入るので、これは子どもの仕事。力を入れすぎてよくホヤを突き破ってしまってこわしたね。すると祖母が飛んでいって店から買ってきた。昔は、こうして年齢に応じてそれなりの家事がきまっていたよ。それをやらないでいると叱られる。ランプ掃除なんて毎日のことだったからいやだったね。ランプには灯油を使っていて、1升(いっしょう、1.8リットル)瓶か1斗(いっと、18リットル)缶に買いおきしてあった。こうした日用品を売る店は、大間越の市街に一応そろっていたが、なくて不便だったのは本屋さん。本を買うには能代市にいくか、20km離れた深浦町までいった。教科書なんかはすべて深浦町からきたもんだね。
本屋はなかったけど、雑誌を読むのは大好きだった。「少年倶楽部」をよく買っていた。少年倶楽部を買うには、能代町にある上の学校に通っている先輩にたのんだのね。発売されるころになると50銭もってたのみにいく。当時は50銭というと大金で、お金がないときは20銭の「潭海」(たんかい)。これがなかなか面白くて、おしまいのころになると潭海ばっかりになっちゃったね。こうしたお金はそのつど祖母からせびってましたね。
青年団とお祭り
実家は海のそばにあり、海が荒れると波をかぶり、裏の畑まで波があがってきた。畑といっても2畝(せ、1畝は約100㎡)ほど、たべるだけの野菜畑。あちらでは北海道とちがって、部落の家々は集まって集落を作り、畑や田んぼは遠くのほうにあった。山の中腹まで馬車や歩きで、人々は畑にかよってたのね。
あのころは青年団がしっかりしていた。ある種の警察権をもっていて、稲刈りの季節になると、夕方5時には3ヶ所か4ヶ所あった部落の入り口で、交代で張り番をする。刈りとった稲束は、前にもいったように「はざ」にかけて干しますが、それをちがうう場所に移したってどれがどれだか分からない。だから、田んぼではたらいていた人々は、5時になるといっせいにに帰宅するんだよね。遅れてあがってくると、記帳させられて農具をあずけていく。夜、青年会館に呼びだされ罰金だ。駐在さんもいたが、こうした事件には関係しなかった。部落自治だったんだね。
それにあらゆる行事が青年団主催で実行されてたね。お盆の獅子舞行事もさかんだったが、春先は田植えがすむと春日祭(かすがまつり)という名称の「さなぶり」がおこなわれ、それはさかんなもんだった。こうした行事は。現在も続いているのには感心させられますよ。津軽のほうには京都弁が入っているらしいんですわ。それで、「春日」などといった名称がついているんではないでしょうかね。町村合併で、現在岩崎村は深浦町になってるが、その深浦の港には、坂上田村麻呂蝦夷討伐にやってきて以来、北前船が寄港するようになったというんだね。北前船の舟子(かこ)たちは円覚寺という寺で願をかけて出発し、無事に帰ってくると再度寄港して丁髷(ちょんまげ)を切って絵馬のようなものに記名して奉納したといわれてる。これらは現存していて、重要文化財になってますよ。
春日祭には1本の木をくりぬいて1間くらいの丸木舟「春日丸」をつくり、帆をたて、五体の人形をのせるのね。丸木舟をかつぎ、それに太鼓のお囃子がついて市街を一回り。青年たちは女性の肌襦袢をまとい「太刀踊り」を踊って景気づけ、それはにぎやかでした。子どもたちがゾロゾロ後について歩いていったもんですわ。

最近の春日祭に使われる「春日丸」
まつりの最後には、海岸まで丸木舟を運び、沖まで船でひいていって流したのね。それが遠くまでいけばいくほど豊年だということになった。不思議なことに、あの丸木舟が近在に打ちあげられるということはなかったね。海流のせいでしょう、遠くに流されてしまったんでしょうね。
(つづく)