菊池節雄(洋服職人)第1章(2)

秋田県側から見た大間越方面

★ 小学校・夜間学校、そして子どもの仕事
4年生まで通った小学校は、岩崎村小学校大間越分校。分校には1学年1クラス、4年生まで4クラス。同級生は男女合わせて12名ほど。5年生からは、本校まで毎日1里(4km)の道を往復して通いました。
当時はどこの家でもそうでしたが、小学3年生くらいから家の手伝いが本格的に始まりましたよね。
最初は、春先の代かき。「さしとり」といって馬の先に竿をつけて、冷たい灌漑水を湛えた田んぼの中で、馬をぐるぐる回す仕事でした。後から叔父が馬を追って、馬鍬(まんが)で耕土をならしてきます。山にまだ真っ白に雪が残っている時期。素足のまま冷水に入っての仕事だから、冷たいというよりは寒かったですね。少雨決行。雨の日にはとりわけ寒かった記憶が、いまも鮮明に残っていますね。最初が「あらかき」、次いで「なかがき」、最後が「しろかき」と、来る日も来る日も「さしとり」。本当につらかった。代(しろ)はかけばかくほど稔りがよいと、叔父に叱咤されながら、水っ洟をすすり上げて、ともすれば振り回されそうになり、動きたがらない馬と竿を通して格闘してました。そのころから、農家は嫌だ、絶対にならないぞと思っていましたね。
代かきが終わると田植です。
この時期には、毎年、10日間くらい、学校は農繁期休業になりました。休みにならなきゃ、仕事しないで学校に行けるのに…… 仕事が嫌で、休みを恨めしく思ったりしたもんです。猫の額ほどの田んぼがあちらこちらに散らばっていて、山のほうには段々畑まであったから、1週間くらいは田植えをやっていたように思います。子どもが作業するのは自分の家だけ、叔父たちは「てまがえ」で近所の家の田植えも手伝うのが土地の習慣でしたね。
稲刈りのときは「はざかけ」が子どもの仕事。稲刈り作業は鎌で刈った稲を4・5本紐代わりにして稲を束ねていきます。この稲刈りは難しくて子どもには無理、子どもははもっぱら稲の束をかついで干し架まで運び、はざ(横棒)にかける「はざかけ」専門。夕日を浴びながら、落穂ひろいもやったもね。夕冷えも結構応えたもんです。
冬になると前に言ったように炭焼きの仕事が始まるんですよね。今から考えると惜しいような立派なブナの木を倒しては割って炭に焼いてました。学校から帰ってくると、焼いた炭を山から下げるのにそりを持っていって、焼きあがった炭を運び出すのね。炭は1日1回焼きあがるのが白炭(しろずみ)、黒炭(くろずみ)なら焼きあがるのに1週間以上かかってました。たいていは白炭を焼いていましたから毎日仕事があるんですよね、これが。8貫(30kg)俵が2、3俵、4貫俵も3俵くらい焼きあがっていました。これを背負ってそりを使えるところまで運び出します。道らしい道のないところを運搬するんですから、これも子どもの仕事とはいえ、つらい仕事でしたね。
小学校を卒業すると、分校に開設されていた夜学校(高等科ではない)へ2年間通いました。ここで珠算やローマ字を教わり、後になってずいぶんと役に立ちましたね。それまで、夜学校の先生は定年間近のおっかない先生ばっかりで、寒い日は丹前を着て教室に現れる人、長い竿を持って生徒の頭をたたく人などでしたから、夜学校いくの恐れていましたね。ところが私たちの学年はさいわいとてもいい先生に恵まれ、楽しく、多くのことを学ばせてもらいました。この夜学校はまったく無料。村のほうで面倒を見てくれていたのだと思います。

★ 子どもの遊び
今考えると、それは、それはよく仕事をしたもんでした。どこの家でも忙しく、子どもたちはよく仕事を手伝いました。でも暇を盗んでは、これまたよく遊んだもね。パッチ(メンコ)とかコマ回しとかに興じていました。冬になるとスキーやスケート。遊びに夢中になり、言いつけられた仕事をやり忘れてしまって、ゲンコツを食ったこともチョイチョイでしたね。
スキーはみんな自分で作ったのね。家の隣が木工場で、そこで材料を見つけては作ってました。この木工場では線路の「枕木」や線路を締めるための「チョップ」(?)を作っていたんですね。それを馬車に積み込むためにはよく手伝わされもんです。これが重たいのね。昔はやたらに階段が多かったから、馬車が中までは入れない。それで私もひまさえあれば動員され、叔父さんの仕事を手伝いましたね。
スケートは竹スケートもやりましたが、長靴に皮バンドで取り付けてすべる奴が多かったですね。山が近かったから坂道が多いのね。坂を滑って遊ぶ。それで、夜のうちに水をかけておくと、翌日はカチカチに凍ってるの。その上を滑るとスピードが出て面白かったね。ところが、馬車追いの人が怒るんですよ。馬橇が滑ってしまって、上っていけない。木灰をまいたり、マサカリで氷をかいてやっとあがるという始末。怒るのも無理ありませんよね。でも、面白かった。着物の裾がカチカチに凍ってしまうほど遊んでたものね。
夏休みになると家の仕事から逃げ出して、友達といっしょに海に行き、アブラコとりとかアワビとりとかよくやって遊んだね。アワビは大きいと30銭くらいで売れたのね。イサバヤ(魚屋)が買いにくるんですよ。そんなのを獲ると祖母がほめてくれるから、こちらは大威張りさ。売れたお金は家の財布をあずかる祖母のふところへ。でも、5銭か3銭くらいはもらったもね。
春には山菜採りがありました。山菜も買いに回ってくるおばさんがいて、買ってくれるのさ。学校から帰ると、友達と山に入っていって山菜を採りそれを庭に並べておく。おばさんがやってきて祖母と交渉しその都度値段が決まったようでした。代金は祖母のふところへ入り、私はやはり5銭か3銭。
5年生になって本校へ1里の道を通い始めたのね。本校に行って感心したのは、充実した児童文庫。充実したといっても200冊くらいの少年読み物がそろっていただけなんですが、夢中になって読んだもね。どれもこれも面白かった。おかげでずいぶんと楽しい思いをしましたよ。それで、先年、岩崎村小学校を訪ねて、図書を充実してくださいと応分の寄付をさせていただきました。ヤンチャ坊主の恩返しというわけね。先生方が図書を選定してくださって「菊池文庫」が設けられたと校長先生から礼状を受け取りましてね。過疎化の波はこの小学校にも及んでいて、全生徒数はわずか36名。その全員からお礼の手紙もいただいて感激しました。今、私の宝物になっていますよ。
一生懸命、働くことはよく働いたし、それに遊ぶこともよく遊んだね。なんせ、歩くことをなんとも思わなかったものね。大間越の南は秋田県、岩館というところまで汽車が来ておった。3里(12km)あるんですわ。それをね、日曜日にみんなで汽車見に行こうってもんで歩いていったのね。ただ汽車を見ただけで帰ってきたら、もう暗いんだよ。言いつけられた仕事はしていないし、散々なめにあってしまっね。あのころは3里くらい歩くのは普通だったね。学校の遠足といったら2里以上、なにせ毎日学校まで片道1里歩いているんだから、そのくらいなけりゃ遠足にならない。足腰が鍛えられましたね。
(先頭の写真は秋田県側から見た大間越方面。正面の山の向こうが大間越。右のトンネルは新国道、中央のトンネルはJR五能線、写真左側、岬の先をめぐって走るのは旧国道。山の上↓印は関所跡)