湧別の住民たち

菊池節雄(86歳)

菊池 節雄 (洋服職人)
第一章 青森県で生まれ育つ
★ 私の出生と父母
大正9年(1920)2月18日、青森県西津軽郡岩崎村大間越(おおまごし)に生まれました。大間越青森県秋田県のとの県境、前方は日本海に面し、背後には世界遺産となった白神山地の主峰白神山(1235m)が迫る場所。私が物心ついたころは、120戸ほどの半農半漁の部落でしたね。
戊辰戦争(1868―9)の後、戸籍令が発布され平民も苗字をつけることになったのね。大間越は国境で津軽大関の一つ「碇ヶ関」があり、関守は代々菊池氏。その苗字をもらって部落の6割くらいが菊池姓を名乗ったそうです。大間越では、現在でも菊池氏の子孫を本家と呼んでいますね。
私は父母を知らず、曽祖父、祖母、叔父によって育てられました。
母(コマ)は私を妊娠中、離婚します。昔は舅・姑と折り合いが悪いと、嫁は簡単に離縁されたんですね。私の母もその例にもれません。母は実家の菊池家にもどり私を出産。すると、父方から跡継ぎにと私を連れにやってきたそうですが、祖母(リサ)は
「離婚してしまったのだから、孫は菊池家の子ども。やるわけにはいかない」
とがんばり、私は菊池家で育てられることになりました。その後、父とはまったく絶縁したままで、父の顔をいまだに知りません。
祖父は日露戦争(1904〜5)で戦死して祖母は寡婦となってしまい、私の母と2人の弟、つまり私の叔父たちを女手一つで育てます。でも曽祖父が健在でしたから、家計を維持できたのでしょうね。2歳になった私を祖母に預け、母は函館に出て職を求めました。そのころ大間越から函館には多くの方が移住してましたから、親戚を頼って出かけて行ったのです。大間越からは、たくさんの人が北海道に渡っていましたね。常呂紋別にまで働きに来ていた人がいましたし、祖父の妹2人も北海道に渡り、中湧別に所帯をもっていました。
母は縁あって江差のほうの人とめぐり合い再婚します。母には長い間会うことはありませんでしたね。64歳で母が亡くなる前の年でしたか、湧別まで来てくれて始めて会いました。母親のほうに私をとられては困ると心配した祖母は、私を母親に合わせないようにして育ててくれたのでしょう。私にとっては祖母が母でした。不思議なもので、母親恋しいと思ったことはまったくありませんでした。叔父がいましたから、父親がほしいと思ったこともなかったですね。
★ 叔父の結婚
家計はゆるく(らくで)なかったですから、15歳で家督相続した母のすぐ下の弟、つまり上の叔父(清作)はとても大変だったと思いますね。もう一人、下の叔父(小七)は満州事変(1931〜33)で召集され、帰還すると函館に出て働いていました。その頃、子供のいなかった祖父の妹水岡さん夫妻(中湧別在住)の養子になって、丸瀬布のイナウシ鉱山に勤めるようになりました。
家を継いだ清作叔父は農業を主に、なんでも仕事をしていましたね。若いころはまだ鰊が獲れていたそうですが、私が大きくなったころには獲れなくなって納屋の2階に網だけが残っていました。山の田では稲を栽培、北海道に漁師として出稼ぎに行き、冬は山仕事、馬車追いまでして家計を支えてくれました。だいぶ後になって、白神山地のブナ林を伐採して木炭を焼く国の補助事業が農村救済事業として開始され、少しは楽になったようでしたけど……。
叔父は若かったけどなかなか厳しい人だったね。いたずらをしたり、仕事を怠けたりしては、よくゲンコツを貰ったもんだね。私にとってはおっかない叔父でした。
私が10歳になる前くらいのころ、その叔父が結婚したのね。あの結婚式のことはよく覚えていますね。昔の家は祝儀・不祝儀に備えた間取りになっていたから、襖をはずし部屋をつないで披露宴を催しました。あのあたりの習慣にはおかしなことがいろいろあってね、披露宴の最中、座っているのは花嫁さんだけ、花婿さんは部落の中をあちらこちら友だちのところを歩き回っているのね。また、花嫁さんが馬橇に乗ってやってくると、道路わきに待ち受けている人々が、雪玉を投げつけるんだよね。花嫁さんは角巻をすっぽりかぶって必死に防御。「固める」という縁起を担いだお祝い事だったのです。
その後、清作叔父は五人の子どもに恵まれました。(続く)